そこで彼女に会ったのは、偶然じゃなかったのかもしれない。
 学校の、二回と三階の間の踊り場。暖かな日の光が窓枠に沿って四角く差し込んでいる。階段を上ってきて、顔を上げぼくを認識した彼女は、にこっと笑って言った。
「冬太」
 長年呼んですっかり呼び慣れた、呼び捨て。
「久しぶり」
 僕も微笑んで手を挙げる。
「何やっじょん?こんな時間に」
 いつもなら笑って手を振っておしまいなのに、彼女は立ち止まって言う。背が低いから、僕と話をするのにずいぶん見上げている。
「なんかアンケートの集計とかで」
 答えると、彼女はぽんと手すりに飛び乗り腰掛けた。そのあまりに無造作な動きに、僕はスカートの中が見えるんじないかと少しひやひやする。手すりの上の彼女は、ほぼ僕と同じくらいの目線だ。
「え、冬太何か委員になっとったっけ?」
「なってないなってない。友達の手伝い」
 彼女はふふっと笑う。
「それはお疲れー」
「朝日こそ今から何するん?部活は?」
 彼女の所属する吹奏楽部の活動場所の音楽室は別棟だ。今日は半日で学校が終わったのにこんな時間になって校舎内にいる人なんて本当に数えるほどなのに。
「今休憩時間なん。美術部の子に用があって。冬太こそ部活はよ」
「休み」
「あはは、お気楽なんやねーテニス部」
 朝日は足をぶらぶらさせながら楽しそうに笑う。
 幼い頃から(それはもう生まれてすぐの頃から)見慣れているはずの彼女の顔なのだが、中高校生になってあまり会わなくなってからみるみるうちにキレイになったと思う。
「でも部活休みなんやったら冬太デートなんちゃうん」
 ちくりと胸が痛んだ。
「・・・今はフリー。やけん暇なん」
 彼女はそれを聞いてしまったという顔になった。
「ごめん」
 そして慌てたように付け足した。
「あ、私も今フリーなんよ」
 肩をすくめてへへっと笑う。つられたように僕も笑ってしまった。
 その話は母親経由でそれとなく聞いてはいた。「朝日はとうとうノリユキ君と別れたらしい」。今じゃ僕たち自身はめったに会わないのに、誰に彼氏彼女ができた、別れたという話を、子供より頻繁に会っている親から聞いてしまう、そんな奇妙なコミュニティの中に僕らはいるのだった。
 幼馴染。僕たち9人の共通理解では、このコミュニティをそんな風にくくっている。生まれたときから知っている友達だし、今も仲がいいから、そうくくるのも何か違うんじゃないかな、と時々思うけど、他にくくり方を知らない。他人に紹介するときもそう言うし、集まるときは「幼馴染の集まり」だ。しかも子供だけでなく、家族全部でつきあっている。例えば朝日のお母さんを、僕らは「淳ちゃん」と呼んでいるし、僕のお母さんは「修子ちゃん」と呼ばれている。知らない人が見たらちょっと変に思うかもしれないけど、僕らにとってはそれが普通だ。
 昔同じ社宅に住んでいたのだけど、幼稚園を上がる頃にはそれぞれてんでばらばらに一軒家を建てたから、それ以降はほぼ毎月のようにそれぞれの「誕生日会」を開いたりしてしばしば総勢19人で集まっていた。しかし子供たちが成長してからはなかなか集まれる機会もなくなっていったのだった。
「最近さ、直人に会った?」
「うーん、こないだ食堂で会ったけど・・・なんかあんまり会わん」
「やんねー、せっかく同じ学校やのに私全然会わんし。直人と同じ学校なん初めてやけん楽しみにしとったのに。なぁ」
「うん、おれも楽しみにしとった」
 僕たちは共犯者のような笑みを交わす。
「けど、ほんまにみんな会わんようになったよな。清香やもう一年くらい会ってないちゃん」
「会ってないなー・・・大学行ったらな、しょうがないって。こっちにおったって部活とかあってたいして会わんかったやん」
「ぅん、・・・淋しいな」
 朝日は本当に淋しそうにぽつりと言った。
「前はさ、皆誕生日ごとにちゃんと集まっりょったのに」
「今や一年に一回会うか会わんかやもんな・・・」
「また集まりたいなー」
 この言葉は、僕らが誰に会ったときにもいつも言う、お決まりのセリフだ。けど、朝日のその言葉には、なんか実感がこもっていた。ノリユキ君と別れて、けっこうつらいのかもしれない。
「今度子供だけで集まろうよ。ご飯とか食べに行こう」
「いーねー・・・洋平とか、やっぱお酒飲むんやろね」
「飲むやろな。もうハタチ過ぎたし」
 僕たちはまた、共犯者のようにくすくす笑った。
「あ、冬太じゃあ今週とか日曜暇?」
「え」
「暇なんやったら一緒にどっか遊び行こうよ」
 朝日がさらりと言った。
「ええよ」
 そして、思わず僕は承諾してしまった。返事した僕も、提案した朝日もびっくりして一瞬言葉をなくす。あせって訂正しようと僕が口を開く前に、朝日がにこっと笑って言った。
「ほんまやな。じゃあ映画、見に行こ」
 展開についていけずに、僕は絶句していた。僕らはいつも9人でひとセットで、こんなふうに二人とか三人とか、少数で遊ぶことなんてめったにない。うちの兄弟と洋平という取り合わせはまぁあったけど。男女でなんて。きっと初めてだ。
「何でもええけん、見るモンは冬太が決めとってな」
 楽しそうな笑顔の朝日に、ちょっと待ってとも言えない。彼女は腕時計をちらりと見た。
「あー、もう行かな。じゃ、またメールするけん」
 言って手すりから降りようとする。しかし朝日が右手をついた場所には、空気しかなかった。たちまちバランスを崩す。
「ぅ、わっ」
 慌てて支えようと手を伸ばすが、支えきれずに僕まで巻き込まれて床に倒れこんでしまう。
 彼女の体は、僕の上にあった。やわらかくて、温かい、女の子の、カラダ。そして、それを感じて一瞬固まった僕の顔のすぐ近くに、朝日の顔が、あった。
「ぅわーごめんっ!」
 朝日が飛びのく。
 ち、近い、近かったよ朝日・・・。朝日のまつげの本数まで数えられそうなくらい近かった。
「ごめーん・・・痛かった?」
 彼女は床に座り込んだ僕の腕をつかんで引っ張り起こしてくれる。僕と目を合わさない。
「だ、ダイジョブ大丈夫。朝日は?大丈夫?」
「平気平気。ありがとー・・・助かった」
 朝日は照れたように笑って見せ、僕の制服をはたいた。朝日の制服にもほこりついちゃってるんだけど。僕がここではたいてあげるわけにもいかず。
「あ、じゃ、行くわ。またねー」
 言ってひらひら手を振って階段をあがって行った。
 その後ろ姿を、黙って見送ってしまう。
 び、びっくりしたー・・・・・・。キスまで、あと1cmってとこだろう。もちろん初キスとかはけっこう昔に済ましてるけど、けっこう今のはどきどきした・・・。
 ていうか、さっきの、考えようによっちゃ(もしくは傍目から見れば)デートの約束になっちゃうんではないだろうか・・・。いいのかな、朝日。本気なんだろうか。