学校中の空気がいつもと違う。休暇や祭りの直前のような、浮ついて落ち着かない雰囲気が、どこにもかしこにも漂っている。 お祭りごとは嫌いじゃないが、今は皆と同じように浮かれる気にはならない。 「ドゥア、移動遊園地見に行こうよ」 開け放してある部屋の入り口から、ジェイがひょっこり顔を出した。興奮して目をきらきらさせている。 おれはさっきから見るともなしに眺めていた姉からの手紙を置いてジェイのところへ言った。幼さに見合う大きな褐色の瞳が、おれよりはるかに低い位置からおれの顔を見上げている。黒味の強い茶色の、細いつんつんした髪をわしゃわしゃと掻き回してやる。ジェイはこうされるのが嫌いだ。 「明日からだろ、移動遊園地」 ぐちゃぐちゃになった髪の下からジェイは恨めしそうな視線を送って寄こす。 「そうだよ。でも今日来て準備始めてるんだ」 そう言うとジェイはおれの腕をつかんだ。ここで拒否するのも大人気ない。仕方なくおれはジェイに引きずられるようにしてついていった。 魔術堂の裏は、すでに違う世界が構成されつつあった。 まず目に付くのが巨大なテントだ。その周りを数十人が忙しく働いていた。派手な色の布がそこら中に翻っている。機械仕掛けらしい歯車や何かのたくさん付いたものが組み立てられている最中だった。見る間に何か得体の知れない物が形作られていくのは、見ていてちっとも飽きない。 おれとジェイはその様子をずいぶん長い間ぽかんと見つめていたらしい。一人の少年がすいと近寄って来たのにも、声をかけられるまでまったく気付かなかった。 「興行は明日からだよ」 突き刺さるような鋭い視線がおれをまっすぐに見据えていた。今のぶっきらぼうな口調が本当にこいつから発せられたのか疑うほど整った顔立ちをしている。くたびれた帽子を深く被り、だぶだぶの服を着ていた。 「部外者にうろうろされると困るんだ。危ないから」 敵意を抱いているかのような目つきでおれを見ている。そいつは不意にぐっと眉根を寄せた。 「きいてる?」 顔をしかめてもきれいな顔のままだなんて、信じられない。そう思っていたおれより、ジェイの方が先に声を発した。 「ここで見てるだけならいいだろ」 その甲高い声に、少年はジェイの存在を初めて知ったかのように見下ろした。 「こないだそう言ったくせに近寄って怪我したやつがいるんだ。見てるのもダメだ」 ジェイはふてくされたように口をとがらせる。 「約束するよ。絶対・・・」 「ダメだったらダメだ」 おれの言葉は途中でさえぎられ、その少年は冷たく言い捨てた。心底迷惑そうな顔をする。 「早くどっか行けよ」 そして何か言い返す言葉を探すおれとジェイに手を伸ばすと、恐ろしく強い力で半回転させた。どん、と背中を押される。 「何すんだよ!」 ジェイが怒って叫んだが、彼は気にもかけなかった。 「うるさい。早く行け」 おれは彼に飛び掛っていきそうなジェイの手を引っつかみ、少年に背を向け、魔術堂の影へ、少年から見えなくなるところまで連れて行った。 「何だよドゥアあんなやつの言うこときくのかよ」 立ち止まると、ジェイはかんかんになっておれの手を振り払った。どしんと地面を踏みつける。 「何あいつ!腹立つ!」 「・・・聞く耳持たない相手じゃいくら言っても無駄だろ。問題起こしたらお前実際遊園地やってるとき来れなくなるんだから」 「・・・そっか」 ジェイは煮え切らないようだがひとまず怒りを沈めようとし、未練がましく遊園地の方を見た。 「・・・でもすごかったね、あれ。見ていたかったな」 「我慢しろジェイ。明日になれば見れるんだ」 ジェイにはそう言ったが、おれも心残りがなかったわけではない。夕食の前に魔術堂の方ではなく門の方を回って一人でそこへ向かったのは、あの奇妙な物を見たかったのと、たぶんどこかであの少年のことが気にかかっていたからだろう。 実を言うと、おれは移動遊園地が嫌いだ。学校へ来る前に住んでいた街にも彼らはやって来たが、おれは他の子供たちのようにそれを心待ちになどしなかった。 遊園地の何が嫌いなのかと言われれば、細かな理由がたくさんあるような気もするが、何が一番だときかれれば答えられる。 道化だ。 おれはこのどの移動遊園地にもいる、こっけいで憐れみを誘う者たちが大嫌いなのだ。 アーシュナルに彼らがくると聞いたときも、おれは最初から行かないつもりでいた。それなのにどうして足がこちらへ向いてしまうのか、我ながら驚きだ。 門の近くに数台の大きな馬車が停めてあった。テントの周りのものはおそらくもうほとんどが完成していて、見える範囲で働いている人の数もだいぶ減っている。馬車の周りにも人気はなく、おそらく多くの人はあのテントの中にでもいるのだろう。 誰もおれがいることに気付かなかった。最初は隠れるようにして見ていたのだが、次第に気にならなくなってくる。おれは門の傍から離れ、一列に停めてある馬車に沿って歩いていった。 馬車はそれぞれ少しずつ形が違う。ごてごてした飾りの付いたものもあればそうでないものもあるが、どれもテントや向こうに並ぶ仕掛けと同じような変わった色遣いで派手派手しく塗りたてられていた。 四つ目の馬車の巨大な渦巻きの横を通り過ぎた次の瞬間、誰かの視線にばちりとぶつかった。 射すくめるような、目線。 あの少年だった。 片方の足で立ち、もう一方の足は馬車のへりに付いている頭より高い位置にあるでっばりに掛けている。膝の隣りに頬があった。 少年はその格好のまましばらく黙っておれをにらみつけていたが、ふいと目をそらした。足を替えて逆の足で立つ。 おれはばつの悪い思いをしながらも、彼に釘付けになっていた。 彼は次に馬車から少し離れると、片足を後ろから上げてその足首を頭の上でつかんだ。何の苦もなく、軽々と。反った背中の曲線が、きれいだった。 気づいたら、声をかけていた。 「・・・何やってるんだ」 「別に。何でもいいだろ」 にべもなく言い、やはり逆の足でもそれをやってから、少年は地面に座った。周囲の砂利はきれいに掃き集められて平らになっている。 左右の足を一直線になるように開く。すごい。おれたちも授業で体操の時間はあって柔軟をするが、ここまで美しく動けるやつはいない。 彼は一通り動くと、いきなり逆立ちした。 逆立ちしても帽子が落ちないのが面白い。 「あれ、お前まだいたの」 そのままの姿勢で彼は言って寄こした。 「・・・すごいな」 おれはつい言った。彼はとん、と起き上がるとこちらを向いた。 「仕事だから」 言い捨てるようだが、まんざらでもなさそうだ。帽子のつばをぎゅっと下げる。 「見ててもいいぜ」 おれは馬車の傍に腰を据えて座り込んだ。 少年は地面にまっすぐな線を長く引いてその上に立ち、欠点の一つもない側転をした後、続けざまに三回、前にとんぼを切った。ぼんと宙返りをびっくりするような高さでし、その瞬間、帽子が落ちた。 まっすぐな短髪が、ぱさりと宙に舞う。彼は着地し、わずかにふらついた。ため息をついて帽子を拾い上げる。 おれは息をするのすら忘れていた。それはそのおれと同じくらいの年のやつが見事な技を見せたのはもちろん、彼の髪の色にびっくりしたからだ。 だいぶ薄暗くなってきたとは言え、色がわからないほどではない。少年の髪は、輝くような銀色だった。よく磨かれた銀細工のようにきらめく光沢がある。 彼は帽子を被りなおした。髪がすっぽり隠れてしまう。 凝視していたおれの視線に気付いていぶかしげな顔になる。 「何だよ」 「お前、なんで・・・」 言葉に詰まった。何を言おうとしたんだかわからない。おれは焦った。 「帽子被ってるんだ」 いや、違う。こんなことをききたかったんじゃない。 彼は顔をしかめた。 「じろじろ見られるの好きじゃないんだ。・・・普通じゃないだろ、髪の色」 確かに普通じゃない。あんな色、今までに聞いたことも見たこともない。 「でもきれいじゃないか」 少年は答えずに、またぎゅっと帽子のつばを下げた。 その後はかれはひたすら黙ってとんぼ返りや宙返りの練習をし、そして帽子が落ちる度に律儀に拾っては被りなおした。 おれはその見事な技を飽きずに眺め、日が落ちたので彼が着地したのを見計らって、声を掛けてから食堂へ向かった。 そう言えば、あの少年は夕食を食べていたのだろうか。他に人は見えなかったが、あんなところで一人で黙々と練習していたのは何故だろう。 その晩はずっと、彼の珍しい銀の髪と、少し傷ついたような顔が頭から離れなかった。 次の日は特別に午前中で授業の一切が終わり、昼食を食べてすぐにエーレを誘って魔術堂の裏まで行った。 そこはもう本当に別世界が完成していた。 色とりどりの衣装を着た案内役の道化たちがそこここにいて少し嫌になったが、この遊園地のどこかにあの少年がいるのだと思うと気にならなくなる。 頭には小さすぎる帽子を斜めに被った、全身緑と黄色のけばけばしい色のものを身につけた道化が、おれとエーレのほうに近づいてきた。顔には濃い化粧が施されていて、頬には涙のしずくが書いてある。口は最大限笑った形になっているが、表情が読めない。 そいつは手に持っていたブリキでできた王冠を黙って差し出してくる。エーレが笑顔になって受け取った。頭に載せて紐を結んで固定する。道化はおどけた仕草でエーレの傍にひざまづくと、その手を取って甲にくちづけた。 「これもらってもいいの?」 エーレの問いに頷くと、道化はおれのほうにも王冠を差し出した。 「ドゥア、顔こわばってるよ」 笑いを含んだエーレの言葉に苦笑してそれを受け取る。 「ありがとう」 道化は胸に手を当てて大げさに喜び、去って行った。 おれはその小さな王冠を被る。エーレが笑った。 「似合うよ」 「エーレこそ」 赤っぽい茶色のふわふわした髪と白い肌、少女めいた顔立ちのエーレは、たいてい何も着ても付けても似合うのだが。 遊園地に来た少年たちが増えてきた。大きな機会の歯車も回り出し、どこかでアコーディオンの音がし、どんどん騒々しくなっていく。 おれとエーレはまずぐるりと回ることにし、点在する不思議なものを順番に見ていった。 手品を見せている道化がいたり、声のない寸劇を演じている者もいる。 テントのすぐ傍の人だかりを覗き込んで、おれは思わず小さく声をもらした。 あの少年がいた。 銀の髪は明るく強い陽射しの下でまぶしいほど輝いて見える。あんな髪のやつは二人といない。しかし今日は来ている衣装も何かきらきらした物がついている恐ろしく派手なものなので、髪の特異さはまったく気にならなかった。彼を見てその銀の髪が印象に残る者はいないだろう。 彼は道化だった。 赤く塗った笑みの形の唇。白粉で白くなった顔。そして頬には涙のしずく。おれの知っている誰よりも華奢な―――あのだぶだぶの服の下に隠されているときには思いもよらなかったが―――体をぴったりした服に包んで、もう一人の年上と見える道化の足にすがり付いていた。 あの刃物のように鋭い視線などどこにもその欠片のないその顔に、おれは少なからず衝撃を受けた。 彼でないほうの道化がとんぼを切る。そいつは大げさにお辞儀をした。皆拍手を送ったが、おれはそうしなかった。昨日のあいつの方がうまかったからだ。 しかし銀髪の道化のとんぼ返りを見て、皆笑った。彼の演技は、それはもうがたがただった。 ふらつく、よろめく、転ぶ。 昨日のほとんどぶれも失敗もない宙返りが嘘のように、彼はこっけいで無様だった。 彼がしりもちをつくたびに観客は笑った。隣のエーレも笑った。おれだけが、唇を噛み締めて彼の姿をじっと見ていた。 おれは飛び出して行って彼をどやしつけたかった。昨日のは何だったんだ、と。 しかし、だんだんわかってきた。 彼の失敗はすべてが『ふり』だということに。 彼はもう一人の道化よりずっと高く跳び、ずっとちゃんと着地する。それを注意深くごまかしてよろけるのだ。 あいつは、こうして笑われるために、あんなふうに一生懸命練習していたのだ。 いたたまれなさが募ってきたが、おれは彼を見つめ続けた。 三日間の興行が終わって一年もすれば、少年たちの多くが移動遊園地が来たことすら忘れかけてしまうだろう。二人の道化が宙返りをして見せたことなんて、誰も覚えていないに違いない。 でもおれは、きっとずっと覚えている。いや、覚えていようと思う。 彼の銀の髪が反射した光が、まともにおれの眼に飛び込んできた。 今日も夕方に、あの場所へ行こう。彼と話がしたい。 |