最初に冬太に映画を見に行こうと誘ったのは、冗談のようなものだった。あのころ自分が徹底的に落ち込んでいたのも事実だし、誰でもいいから気兼ねなく他愛ない話ができる相手が欲しかったのも本当のことだ。
たまたま冬太に会ったから。だから誘ってみただけなのだ。気軽に。何も考えず。
 だからあてにならない口約束なんていくらしても平気だと思ってたし、あの時私が手すりから(間抜けにも)落ちて、支えようとした冬太が私の下敷きになるなんてことが起こらなければ、実際一緒に遊びにいくことはなかったと思う。
 ・・・あのとき、ちょっと、ときめいちゃったんだなぁ、冬太に。
 あれ、冬太、かっこいいんじゃん?と思ってしまったのです。
 それで、それまで家に帰って一人で部屋にいるとどんどん暗く落ち込んでしまっていたのだけど、冬太と何回かメール交わして、デートの約束して、冬太のこととか見に行く映画のこととか考えてるうちに、だんだん私は浮上していった。
 どうして私がそんなに落ち込んでたかって言うと、・・・フラレタのでした。一年つきあってた彼氏に。
 私は彼のこと、すごく好きだった。でも、彼は私のこと好きじゃなくなってしまった。それだけの話。
 ・・・それだけの話が、私にとっては世界が壊れるんじゃないかと思うくらいの大事件だった。性格上友達にも相談できないで、一人でさんざん泣いて、学校とか部活とかでは全然平気な顔してた。強がりだからね、私は。そんで、見栄っ張り。
 で、冬太とデートした。楽しかった。ホントに。自分でもびっくりするくらい心底笑ってる自分が、いた。
 いつの間にかすらすら背ばっかり伸びて私より数十センチ(三十cmくらいかな)背が高い、なんかんだいってテニス部ですっかり日焼けした冬太に、どきどきしてる自分がいることにも気付いた。
 それでその日の最後、冬太にキスしてしまった。・・・つい。
 この、つい、っていうのがクセモノで、私は慌てた。例の彼氏にだってそんなに私からしたこととかなかったはずなんだけど。慌てて笑って手を振って別れた。冬太はそのあと、キスには一言も触れなくて、私もまさか触れられなくて、でもあのあとまた何回か二人でデートしたりしている。もちろん、キスなんてしていない。
 冬太のこと、好きかもしれない。
 よくわからない、ってのが本音。
 幼馴染なんだもの。生まれたときからの友達。物心ついたときにはすでに友達だった、っていう。それに幼馴染のメンバー9人のうちでもし私と冬太がくっついちゃったりなんかしたら、バランスが崩れそうで嫌だった。
 会いたくて会いたくてたまらなくなる、ってこともないしね。
 ま、そんな感じ。
 でも、今でも廊下で元彼とすれ違うと、ちょっとひやりとする。背すじが固まる。きっと顔もこわばってるんだろうな。でもホームルームが同じ階だから、けっこうな頻度ですれ違ってしまう。
 今日も、科学の移動教室の帰りに、彼が反対側から独りで歩いてくるのが目に入った。すっと、視線を下げる。たまたま暑くて長袖のブラウスを捲り上げているフリをした。現に、暑かったし。
見ない。彼の顔なんて見てやらない。顔さえ見なきゃ、胸だってもう痛まない。
 でも彼は、そんな私の努力を無にした。別れよう、と言ってきた日以来で初めて、私に声をかけた。
「朝日」
 名前を呼び捨てされて、思わず立ち止まる。
「ちょっと話、あるんやけど」
 聞き慣れた彼の声をこんなに近くで聞いても、不思議と胸は痛まなかった。たいしてフリでもなく、ことさらなんでもないふうを装って顔を上げた。
「えーよ。何」
 自然に微笑むことができた。彼は人通りの多い廊下を眺め渡して、小さな声で言う。
「ここじゃなんやけん、201教室行かん?」
「・・・ええけど」
 そんなところで二人きりになって、何の話をしたいんだろう。ふと疑問が沸き起こったが、彼について201教室へ行く。ドアもちゃんと閉めて、彼は私に向き直った。
「・・・話するん、久々やな」
「そやね」
「元気にしとった・・・みたいやん」
「・・・うん」
 私は何を言い出すのだろうと彼を見守った。
「あんな・・・ほんまに今更なんやけど・・・謝ってすむことじゃないってわかっとんやけど・・・ごめんな」
「何が?」
 本当に意味がわからなくてそう尋ねた。謝られるようなこと、された覚えないんだけど。
「いや、その・・・フッたこと」
「・・・・・・もうええよ、そんなん」
 本気でそう思った。あれから三ヶ月が経っている。・・・あれから私は冬太と五回デートをした。
「・・・でな、あんな・・・」
 いつにもまして歯切れが悪い。彼は私から目をそらし、落ち着きなく視線をさまよわせた。
「おれ、やっぱり朝日がおらんと駄目やった・・・」
 恥ずかしげにそう言ってのけた彼に、私は言葉を失った。
「ほんまに好きやった、ってわかったんやって」
 ・・・彼は確か私と別れた後、部活のマネージャーと付き合いだしたのではなかったのか。彼女とはもう別れたんだろうか。
 言いたいことを言ったらしい彼は、おずおずといったふうに目線を上げて、私の顔を見る。
 全然、嬉しくなかった。
 ぞっこんで好きだった彼に告白されているのに、なんとも思わなかった。心が動かない。
 あっちが駄目だったからこっちにしようか、とでも思ったんじゃないかとさえ、意地悪く考えてしまう。
 そして瞬間、冬太のことが思い浮かんだ。
 ・・・冬太とデートしてなければもしかしたら、この告白は嬉しかったかもしれない。戻ってきてくれたんだ、と感動すらしたかもしれない。
 でも、駄目、もうそうは思えない。
 きっぱりそう思って何か言おうとした矢先、彼が一歩私に近づいた。
「な、やり直さんの、朝日・・・」
 そしていとも簡単に、彼は私にキスをした。
 次の瞬間、私は彼をつきとばしていた。
 驚いた顔で彼が私を見ている。私は彼の触れた唇をぐいとぬぐった。
 嫌だった。
 別れてから何度も何度も思い出していた、昔あんなに甘美なだった口付けの感触が、今はぞっとするほど嫌だった。
「・・・朝日?」
「やめて、こんなこと」
 口調にその嫌悪感がにじんでしまう。
「そっちがそうでも、私が、ムリ」
 唇をもう一度、あまりに強くぬぐってしまい、じん、と痛みが残った。
「もう、ムリ、やから」
 それ以上言えずに、私は201教室を飛び出した。
 彼のことを、かけらも好きじゃなくなっていた。彼の口付けが、こんなにも嫌なものになってしまった。
 そして私は気付いていた。
 冬太のことが、好きだ。彼と、キスしたい。