「マリアちゃん、マリアちゃんってば」 (・・・嘘でしょう!?) 絶対に校舎の中で撒いたと思ったのに。あたしを呼ぶこの声が幻聴でないのなら、あの子はきっとあたしの居場所を感知するレーダーか何かを持っているに違いない。 「待ってよマリアちゃん。歩くの速いって」 どうやら幻聴ではないらしい。 「・・・泉川先輩と言いなさい」 背後の彼はちょっと黙った。 「イズミカワセンパイ」 「はい何でしょう奥宮倫太郎クン」 くるりと振り返ってやる。彼はちょっとびっくりしたようにたたらを踏んで立ち止まり、にこっと笑った。あぁ、だからこの子の顔を見るのは嫌なのだ。振り返らなくても立ち止まるだけでよかったのに、と後悔してももう遅い。 「一緒に帰ろうよ。家まで送るから。港の公園を通るのがおすすめコースだよ」 この子はこの満面の笑みを、いつもあたしに向けてくれる。これでもかというくらい大きなくっきりした二重の瞳は、太陽の下では完璧に茶色に見える。瞬きするたびに音がするんじゃないかと思うほど長いまつげ。優美で形のよい眉と鼻筋。ゆるくカールした茶色くて柔らかそうな髪。女の子なら誰でも見とれてしまうようなこの子が、どうしてあたしなんかについて来るのかまったくもってわからない。 「・・・嫌、って言ったら?」 「・・・・・・悲しい」 本当に悲しそうな顔をする。そんな顔されたら嫌だなんて言えなくなるじゃない。あたしはため息をついた。 「・・・わかった。じゃあ港の公園までは行ってあげる。でも家まではついて来ないで絶対」 ぱっと花が咲いたような笑顔を見せて、彼は何度も頷いた。あたしの隣へするりと滑り込む。 あたしは彼とちょっと距離を開けて歩き出した。彼もおとなしく足取り軽くついてくる。 「ねぇ」 「なぁに、マリアちゃん」 この際先輩と呼ばなかったことには眼をつぶろう。会話がめんどくさくなる。 「・・・なんであたしにかまうの?」 彼が隣でくすりと笑った。 「それはもちろん、マリアちゃんのことが好きだからだよ」 もちろんそんなことはわかっている。この数週間の間、所かまわず毎日のように言われたのだから。 「こんなに冷たくしてるのに、どうして諦めないの」 「好きだから」 見なくても彼が甘く微笑んできるのがわかる。顔が熱くなった。頬が赤くなっているのは風に当たったからだと思ってくれればいいんだけど。 「好きっていうのは、理由にならない?」 「・・・・・・なんでよ」 無邪気に言った彼に対して、思いがけず低い声が出た。やばい。暴走してしまう。 「なんでそんなこと言えるのよ。あたしのこと何も知らないくせに」 「知ってるよ。誕生日も身長も体重も。スリーサイズは調べられなかったけど。・・・水着とか着てくれれば大体のことはわかるんだけどな・・・」 間髪いれずに彼は明るい声のまま言った。思ってもいないきついことを言ってしまいそうだったのがおさまる。その代わり、顔がますます火照ってきた。 「あとねー・・・、マリアちゃんの好きな食べ物でしょ、嫌いな食べ物でしょ、愛読書に得意科目。あ、あと考え事してるときに唇をなぞるクセとか」 彼は手をポケットに突っ込んでふふっと笑った。 「あと他にも知ってることあるけど言えって言われてもわからないや。明日表にまとめてこようか」 「・・・・・・いい」 「でも、知ってることもたくさんあるけど、まだ知らないことの方が多いんだよね。ね、おれもっとマリアちゃんのこと知りたいからさ、もっと仲良くなろうよ」 どうしてこの子はこんなことを平気で言えるのだろうか。・・・帰国子女だから? ハーフだから?私だったら死んでも言えない。 「あのねぇ、あたし彼氏は作らないから、って何回言ったらわかるの?」 「なんで作らないの?家で禁止されてるから?」 「全然。むしろあたしに彼氏ができたなんて知ったら早く家へつれて来いって毎日せっつくような家族だもの」 「じゃあなんで?」 「決めたの。あたしが」 「どうして?」 答えなかった。というより、答えられなかったのだ。理由なんてない。・・・いや、なくもないけど、言えない。 しばらく沈黙して、彼は真面目な声を出した。 「ね、おれじゃ駄目かな。モノは試しと思って。付き合ってみるの、悪くないと思うよ」 あたしの足は止まってしまった。彼も立ち止まってけげんそうにあたしを見る。 「・・・なんであたしなの」 「え?」 「何であたしのことなんか好きになったの」 顔を直視できない。どんなときもまっすぐ前を向いているのが私のモットーだったのに。 「・・・わかんないよ、そんなの。ただ、ああ好きだな、ぎゅうって抱きしめたいな、ってマリアちゃん見て思うだけだよ。人を好きになるのに、理由なんてないって言うじゃない」 やっぱりやさしく微笑んで、彼はあたしを見つめた。 ああもう駄目だ。この子にはかなわない。毎日のようにあたしを追い掛け回しては、極上の笑顔をあたしにくれる。 あたしは顔を上げて彼に向き直った。 「・・・あたしのうちにはね、美人が山ほどいるのよ」 きょとんとする彼の顔をしっかり見据える。 「弟たちなんてね、街中連れ歩いて自慢したいくらい。だからね、きれいな顔なんて珍しくもなんともないの」 彼は色素の薄い眼をぱちぱちさせる。あたしは続けた。 「頭のいい人もちっとも珍しくないわ。うちの姉より頭いい人って、あんまりいないみたいだし。・・・だからね、あたしにとって奥宮倫太郎クンは、他の女の子たちが言うようなすごい人でもなんでもないのよ」 何を言い出すのかといぶかしげな顔になって彼は首をかしげる。 「ね、マリアちゃん、それと何が・・・」 あたしは片手を上げて彼を制した。 「だから、あたしはそういうことではあんたをちやほやしたりとかはできないの。でもね、正直言うと」 あたしはそっと息を吐いた。言いたくなかったんだけどな。 「あたしあんたの顔、すっごい好みなの」 言ってしまうとなんだか腹が据わった気がした。彼のみるみるうちにかぁっと赤くなった顔に指を突きつける。 「あんたのことあんまり知らないし、人として好きかもましてや異性として好きかもまだわからないけど、とにかくその顔だけは好きよ」 そうなのだ。最初からあたしは、この子の顔がめちゃめちゃ好きだった。彼氏にしたいとかそういうことは微塵も考えなかったけれど(そもそもあたしは“特別”な異性を持ちたいとも思っていないのだ)、その容姿にだけはすごく惹かれていた。 「・・・あたしはあんたのことを、うちの家族とどんどん比べるし、家族の誰かと会いそうなとこではデートしないし、これからあんたのこと好きになれるかどうかなんて全然わからないけど、でも・・・それでもいいのなら・・・」 そこまで言ってしまってから、突然あたしは顔から火が出るかと思うくらい恥ずかしくなってしまった。意地でほとんどにらみつけるように彼の目を見つめる。 ぽかんとあたしを見ていた彼は、ぱっと我に返って、そしてあたしの大好きなあの微笑を顔全面に浮かべた。すっとあたしの右手を取ると、外国の紳士か何かのようにその甲にくちづける。 「おれの彼女になってくれませんか、マリアちゃん」 あたしは真っ赤になって、それでもちゃんと、大きく頷いてあげた。 嬉しいんだか恥ずかしいんだか、それともものすごく後悔してるのか、自分でも全然わからない。 ・・・でもとにかく、彼氏ができただなんて、絶対に家族には、言えない。 |